西鉄甘木線の200形電車(1975年)

 一つ下のキハ66(67)形を筑豊に訪ねた翌々日(1875年3月28日)、西鉄大牟田線の久留米と花畑駅へやってきた。久留米駅は既に高架化されていたが、花畑駅はまだ地上時代である。

 西鉄には九州鉄道以来の20型電車が正面5枚窓の半流線型(丸型)のまま200形として使われていた。14m車と小型なため、本線運用からはだんだん撤退していたが、甘木線ではまだまだ継続使用されていた。その電車を撮影に出かけてきた。

 西鉄200型4連.jpg
 200形4連の普通・甘木行きが、西鉄久留米駅上りホームに到着。

西鉄200型顔.jpg 
 花畑駅停車中の甘木線200形204号車。まだ前照灯のシールドビーム化改造前で、原型を保っていた。

西鉄204号車内.jpg
車内に入ってみる。半鋼製なので木目が輝いていた。正面の運転台後部には行き先板が置いてある。

西鉄ク62.jpg
 花畑駅に珍車がやってきた。200形の仲間のク62号車(後方はモ200形)。1934年に旧・博多湾鉄道(後の宮地嶽線や国鉄香椎線)用に製作され、後年大川線(大善寺から分岐していた非電化線)へ転用されたガソリンカーで、1947年に大牟田線電車の制御車として移籍してきた。出自が違うので形態も全く違う。

 200形には思い出がある。まだ大牟田線の現役バリバリで使用されていた当時、大牟田から大宰府まで貸切電車に乗車したのである。昭和38年の大牟田市立三川小学校の遠足(4年生5クラス)は、大宰府へ行くことになった。大牟田駅まで西鉄の貸切バスでゆき、大宰府へは直通の貸切運転だった。200形の3連で、貸切なのでドアは開かないが、単線区間の交換駅ではしばしば運転停車した(ちょうど複線化工事の真っ只中で、倉永ー開間、三潴ー大善寺間、蒲池-大溝間は単線だった)。最後部の車掌さんの脇だったので、車掌スイッチの<1扉開>で時々ホームへ下ろしてくれた(今だったら当然ダメだろうが・・)。

 これが面白いのなんのって・・。大宰府園(現・大宰府遊園地)で遊んだ記憶はほとんどないが、西鉄電車(当時は「急行電車」とよばれていた)の思い出だけが強烈に残っている。帰りは200形ではなく303系?の2連だったので、運転台との仕切りがあって、乗務員さんとの交流はなかった。

 西鉄の大牟田線全線複線化工事は結局は完成せず、西鉄の大幹線には2ヶ所(試験場前-大善寺間、蒲池-開間)の単線区間が残る何とも不完全な形で中断してしまった。柳川付近には複線化用地とそれを示す境界標がそのまま現存しているが、半世紀前の遺物として残ってしまった。

  
 ところで、花畑駅の200形の撮影の1ヶ月前、私はゴーマルサン・ダイヤ改正で消える列車を撮影しようと福岡の祖母の家に来ていた。そのとき、井尻ー雑餉隈間の井尻第3踏切(第4種)で「西鉄特急脱線転覆事故」が起きた。ライトバンと2000系大牟田行き特急が衝突し、電車が大破して架線柱をなぎ倒しながら線路脇に突っ込んだのである。

 2日後に国立大学の入学試験が控えており、復旧が急がれた。事故によって線路上の特高圧電線が切れ、沿線で大規模な停電が発生した。大橋-春日原間が不通になり、バス代行輸送が行なわれた。私はこのバス代行輸送を経験している。井尻駅には電車は全くやってこないので、県道(31号線)へ出るように駅に案内があった。停留所には西鉄の係員が立ち、ハサミで適宜に切った紙片に「井尻駅」と押印したものを手交していた。当時の西鉄には「振替乗車票」と言うものはなかったのだろうか。

 電車だけでなく、西鉄バスセンター(天神)からも代行バスが運行されていた。直ぐに大量のバスをかき集められるのは、さすが「日本一のバス会社・西鉄だ」と思ったものだ。

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 話が相前後するが、一番上の久留米駅で電車を撮影している間、他の車両も見ている。2000系の特急がクイーンだったが、600形も特急運行を担っていた。また、20形などの古い車両も活躍していた。花畑駅の一つ先の試験場前駅からは、分岐する引込み線があった。西鉄産業という鉄道工場で、軌道線を含めて西鉄車両の更新修繕をしていた。

西鉄600型急行.jpg
600形5連の急行・福岡行き。行先表示、急行板とも看板方式のままで、前照灯も白熱式のままである。この後おでこに方向幕が付き、ライト類は腰部に降りた。甘木線用から狭軌の貝塚線用に転用されて、大牟田線では見ることが出来なくなった。

西鉄20型.jpg
 20形3連の普通・福岡行き。Mc+M+Tcの16m車3連であるが、1000型に似た正面2枚窓の湘南型。車体は新造だが、台車や機器類は旧型車からの転用だった。宮地嶽線転用後は120形になった。

 久留米駅が地上にあった時代は、福岡、二日市、久留米駅は、ホームに大きなアーチ形屋根を持つ駅だった。九州鉄道以来の伝統だったのだろう。形状は違うが、富山地鉄の電鉄黒部駅に雰囲気が似ていた。

 

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