1972年夏の関西私鉄訪問(その1)

 1972年の春に関西私鉄と北九州の鉄路を巡った私は、その年の夏休みに関西私鉄の乗り歩きに出かけた。それも1ヶ月のうちに2回行っている。いささか記憶が不鮮明になっているが、思い出すままに概要を記しておきたい。

 1回目は、1972年7月17日から20日である。23:30分発の国鉄バス「ドリーム」9号京都駅行きに乗車した。夜行バスははじめての経験だった。当時のドリーム号は同じような目的の若者で大混雑しており、1号車のほかに増1号車~増4号車の5台続行運転であった。

 そんな中、私はネクタイ姿で乗車した。場違いな風体である。前から3番目の窓側だったが、となりは関西弁のお兄さんで話をすると、京都大学の3回生の学生さんであった。意外と面白い話が聞けた。会社訪問でもするのかといわれた気がするが、「電車の写真を撮りに行く」とはいえなかった。

 当時は静岡インターと名古屋インターで乗務員が交替した。国鉄自動車の管轄は全国区であることを認識した。そして三ケ日インターでは東名道の外へ出てしまい、インター近くのドライブインに入り休憩となった。深夜にも関わらず、うどん屋さんなどが大繁盛していた。

 翌朝は20分遅れて京都駅に着いた。京大生のお兄さんともお別れ。駅前から京都市電に乗車する。平日ラッシュ帯だったので、市電は全部「急行」運転を行なっていた。

1972年京都市電急行.jpg
 京都市電の名物、全列車・全停留所が急行運転だった。急行のサボを掲げていた。四条河原町で。

 四条河原町からは京阪神急行電鉄に乗車した。地下へ降りると、2800系の特急が停車していた。なかなか洗練された特急車であることがわかった。京都の地下線を大宮まで乗車した。
 
阪急2800系車内.jpg
 春に梅田駅で見たときは外観だけだったので、乗車は初めてである。

 阪急大宮駅で下車して地上へ上がる。交差点の脇に京福電鉄嵐山線の四条大宮駅があった。きょうはまず、京福嵐山線に乗車する。駅に入ると路面電車形の車両がやってきた。ポール集電というのが珍しく、どうして架線から外れないのか興味津々で眺めていた。

嵐電四条大宮駅ビル.jpg
 嵐山線の四条大宮駅。いまは建て代わっている。

ポール先端部.jpg
 ポール先端部。

欄伝301号三条口.jpg
 線路は専用軌道だったが、途中から併用軌道の区間も現われた。

嵐電三条口平面交差.jpg
 西大路三条で京都市電と斜めに平面交差していた。架線の交差部が興味深かった。

北野白梅町.jpg
 嵐山までは行かず、途中の帷子ノ辻で乗り換えて、北野白梅町にやってきた。

 京福電鉄はその時点では、京都支社と福井支社があり、嵐山線は鞍馬線とともに京都支社の管轄下にあった。北野白梅町で下車すると、叡山線の出町柳駅に向かったのだが、どうやって行ったのか記憶がない。京都市電だったのか?

 始発駅の出町柳から叡電に乗車した。車庫のある修学院車庫前で下車。京福には古典的外観の車両がたくさん走っていた。

京福修学院車庫122号車.jpg
 なんともクラシックな122号車。

 車庫に入ることなく、直ぐに引き返した。出町柳の一つ手前の元田中で下車した。ここで京都市電に乗り換える。かつては叡電と市電との間に渡り線があり、直通運転が行なわれていたとのことだったが、既に終了していた。

 元田中の平面交差部には踏切警手がいて、叡電通過時には手旗で交通規制をやっていた。遮断機はなかった。市電の電停名は叡電前といっていた。ここから市電で南下し、東山三条まで乗車した。

 東山三条には京阪大津線との平面交差があった。乗り換えて、蹴上まで乗車した。蹴上には普通しか停車しない。準急は高床車の260形などが使用されており、路面からの乗降は出来なかった。蹴上から80系2連の普通に乗車して、三条まで行く。

蹴上260型2連.jpg
 準急は京阪特急と同じ塗り分けの260形などが運用されていた。

蹴上80系2連.jpg
 80形は路面電車としては秀逸なデザインだったと思われるが、大津線廃止後引き取り手がなく廃車になったのは残念だった。

京都市電1611七条大橋.jpg
 京阪線で七条まで乗車し、京都市電で京都駅まで出た。1611号車だった。

 大津線乗車後は、京阪線で七条まで、市電の七条大橋から京都駅前まで乗車して東海道線の「新快速」に乗り換える。初めて新快速に乗車したが、京阪間ノンストップで新大阪も通過するなど、国鉄の打って出る施策が感じ取られた。大阪からは阪神電車に乗り換えて、野田へ。ここで阪神の路面電車を体験した。

阪神国道線野田駅構内2.jpg
 阪神の野田駅は本線は既に高架化されていたが、国道線と北大阪線は地上に線路とホームがあった。

 野田から北大阪線に乗車した。北大阪線は道路自体を阪神が建設し、その上に軌道を敷設したものだった。開業当初は牧歌的風景だったと思われるが、いまや工場や住宅密集地でその割には道幅が狭く路面電車は自動車にじゃまされながらの走行だった。ぼ~ぼ~ぼ~ぼ~、という警笛を絶え間なく鳴らしていた。T形の架線柱が独特だった。

 途中の中津で阪急電車に出会う。国鉄梅田貨物線を越える鉄橋は、阪急と同じ形態のトラス橋が架かっていた。設計が共通だったのだろうか。中津まで乗車して野田へ引き返した。

阪神中津17号車.jpg
 中津まで乗車した17号車は天六めざして発車して行った。

阪神中津88号車.jpg
 中津から88号車で野田へ戻る。夕方ラッシュ時なので車の洪水の中を走った。

 このときは北大阪線だけにしか乗車しなかったが、国道線も魅力的な路線だった。乗車は数年後になる。

阪神国道線野田駅手旗.jpg
 野田に戻ってくると、国道線の電車が到着寸前だった。車掌が手旗を出して自動車を抑止。阪神らしい光景だった。

 この日は大阪城が見える森ノ宮にある国家公務員共済組合連合会の運営ホテルに泊まった。かつて父が公務員だったので利用できた。ドリーム号から始まって京都、大阪の主として路面電車の探訪が終わった。このころは全線完乗など思ってもいなかったので、触りの部分だけ乗れればいいというスタンス。考えてみるとずいぶん非効率な乗り歩きだったともいえる。京都市電などもっと乗っておけばよかったと後悔している。

 しかし、当時の私にとっては、初めての自分旅。なかなか充実した1日だった。この旅に味をしめて、1ヶ月後には再び同じような行程の関西旅をやることになるのだが、その前に、2日目の関西私鉄訪問記を書いておきたい。


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