1972年の関西・九州行き(1)

 このブログでは昨年春に高校時代までの乗り歩きのいくつかを記した。ここからは大学へ入って以後、1972年春からの思い出を記しておきたい。

 私の鉄道趣味の対象は、当時主流だった蒸気機関車ではなく、私鉄の高速電車にあった。特に関西の私鉄には大きな関心を抱いていた。中学~高校の修学旅行でわざわざ関西の私鉄を乗り歩いたことは、鉄道趣味の方向性を決めたといっても過言ではない。

 1972年3月23日から、私は一人で福岡の祖母の家に出かけた。途中の京都で下車して、関西の私鉄に乗車することが大きな目的の一つだった。新大阪からは電車寝台583系に乗り、熊本~大分経由で北九州を一周して博多駅に向うルートをたどった。

 新幹線東京駅ホーム72.3.23.jpg
 東京7:50発の「こだま111号」に乗車した。まだ0系などとは呼ばれていなかった新幹線で、京都まで乗車した。

 今と違って「のぞみ」最優先のダイヤではなく、「こだま」と「ひかり」は棲み分けが出来ていた。「こだま」の方が特急料金が安かった。

 京都で下車すると、跨線橋から153系の新快速電車が見えた。新快速は1970年から登場していたが、いわゆる「ヨン・ナナ・サン」ダイヤ改正(昭和47年3月15日)で、京都~大阪~西明石間を15分間隔で結ぶダイヤに生まれ変わっていた。塗装も湘南色からブルーライナーと称される新快速色に塗り替えられていた。国鉄が本格的に関西私鉄に挑んだ最初のダイヤ改正だった。

 京都~大阪間29分運転(新大阪ノンストップ)は関西私鉄にとって脅威のハズだった。しかし、実際にはその後20余年(阪神・淡路大震災まで)は私鉄の天下は揺るがなかった。

新快速153系京都.jpg
 跨線橋から見えた153系新快速電車。新幹線岡山開業で大量に余った急行用電車を転用したもので、当時は6連である。ブルーライナーの塗装は斬新だった。

 京都市電2001.jpg
 京都駅からはまだまだ元気だった京都市電で河原町まで乗車した。2000形のトップナンバー車だった。

 京都の町は修学旅行以来だったが、何となく土地勘が働く。四条河原町で下車してブラブラと京阪電車の三条駅まで歩いた。京阪線は地下化される前で、鴨川沿いを景観によく似合う風景を醸しだしながら走っていた。京阪三条駅は疎水の上にある風情ある地上駅だった。まだ京津線(大津線)が健在で、大津へ向かうポール集電の路面電車形車両も魅力的だった。

京阪三条駅.jpg 
 京阪三条に宇治線の電車がやってきた。元特急車の1700型だった。右側はこれから乗る特急・淀屋橋行きで、1900系のテレビカーである。

 三条から大阪京橋まで一気に乗車する。当時は録音しながら乗車するのが趣味で(放送部だったので)、中学からの同好の士だったS君に向けて沿線中継しながらの京阪特急だった。でも今聞くと気恥ずかしい。

 1900系はなかなか出来た特急車だった。ブレーキこそ後年のHSC-D系ではなかったが、京阪線のカーブの連続を右へ左へと走り、テレビカーの受信もまあまあだった。

 大阪に近づくと複々線になり、京阪の真髄が満喫できる路線形態となった。駅ビルが完成したばかりの京橋駅高架ホームに滑り込んだ時はすっかり京阪の虜になっていた。

 京阪京橋駅1924号車.jpg
 テレビカー1900系にはバンパーが付いていた。

京阪京橋駅1300系.jpg
  外側線を普通車の1300系がやってきた。

 京橋に着いた京阪特急から降りるのは名残惜しかったが、複々線を駆使した京阪線は関東の私鉄にはない先進性を感じた。もっと乗っていたいという衝動を抑えながら、次の行程へ進むことにした。

 大阪環状線の101系で鶴橋まで向かう。鶴橋で近鉄線に乗り換える。複々線の使い方が現在とは異なり、北側が奈良線、南側が大阪線となっていた。1970年の「大阪万博」を機に難波新線という形で難波乗り入れが完成したが、要は張付線増の形を取っていた。

 鶴橋からは大阪線で一駅、上本町(地上駅)まで乗車。停車中の近鉄特急などの見学に費やした。ビスタカーの2階建てをはじめて実地に見て感心したものだ。それ以上に、元参宮急行電鉄のモ2200型には感激した。宇治山田行きの急行運用についており、伊勢まで乗ってみたいとの衝動に駆られた。

近鉄上本町2200系.jpg
 2200形宇治山田行き急行車。

近鉄上本町ビスタカー.jpg 
 鳥羽行きの乙特急。ビスタカー10100系3連車。

 もう大ターミナルの風格はなくなりつつあった近鉄上本町から地下線の難波線に乗車した。こちらは活気があった。難波線の終点の近鉄難波から少し歩いて南海電車に乗り換える。南海には初めて乗る。

 高島屋の2階に発着する南海電車は、まだ他の多くの関西私鉄同様に架線電圧が600Vだった。南海線は鋼製車、高野線はステンレスカーというのが特徴だった。南海電車には新今宮までしか乗車していない。大阪環状線との連絡駅として開設されて間もない駅だった。

 南海難波10000型急行.jpg
 急行・羽倉崎行き11000型に乗車した。
 
 四国連絡特急、紀勢本線直通など、どちらかといえば国鉄のような風格ある大私鉄である。しかし、和歌山方面まで乗車することはなく、大阪環状線で次の目的地の阪神・西大阪線へ向かった。

阪神西九条5250型.jpg
 阪神西大阪線・西九条駅に停車中のジェットカー2連。

 いまでこそ阪神なんば線は活況を極めているが、当初は尼崎から分岐する伝法線が起源である。伝法から国鉄線連絡のために西九条まで延びてきたのが阪神西大阪線。壮大な名前が付いている。しかし、乗客数が伸びず、このころは健在だった西大阪特急は2連で運行されていた。本線に合流する大物駅で下車。バンバン優等列車が走る阪神線は京成によく似たスタイルの顔をしていた。

 阪神電車に乗ったのもこのときが初めてだった。鉄道ピクトリアル誌の「私鉄車両めぐり」を食い入るように読んでいた阪神特集。喫茶店の愛称があった旧型車こそなかったが、1両単位でも運行できる車両が多く魅力的だった。このときの乗車ですっかり阪神電車ファンになった。

阪神大物駅5200型.jpg
 大物駅の本線を走るジェットカー5101系3連の普通車。

阪神梅田駅3500型特急.jpg
 梅田で撮影した赤胴車3501型6連特急。扉は片開きである。すでに神戸高速鉄道が開業しており、山陽電車の須磨浦公園まで直通する。

 阪神梅田駅で下車したあと、怒涛のような混雑の中を阪急梅田駅まで歩く。デパ地下巡りもやったような・・? 阪急梅田駅は洗練されたスタイルと神戸線・宝塚線・京都線の3線同時発車など、他のどこにもないような気品のある駅だった。

阪急京都線特急2800型.jpg
 阪急といえば2扉転換シートの2800系だ。

 この頃の阪急は、まだ「京阪神急行電鉄」という呼び方をしていた。車両の外観はベーシックなチョコレート色だが、まだチョコレートパフェのような屋根周り塗り分けは登場していない。

 阪急電車で一応の関西私鉄乗り歩きはお終いにして九州へ向かう。今なら一杯やってとなるだろうが、当時はまだ10代だったので、アルコールは飲んでいない。それ以上に一人で飲食店に入る勇気!?がなく、駅弁を食べただけ。真面目!だった。

 関西私鉄のさわりの部分だけ乗車したわけだが、以後は京阪と阪神を軸に、年に何回も訪問することになった。関西私鉄は東京にはない先取の気風と独特の自己主張を持つ鉄道だった。

 阪急の後、どうやって新大阪駅に行ったのかいささか記憶があいまいなのだが、新大阪駅から583系の寝台特急「明星」2号に乗車した。583系には初めて乗るので興奮していたと思う。なかなか寝付けなかった。
 
明星2号新大阪入線583系.jpg
 583系は向日町電車区から回送されてきた。

 一夜明けた九州は雨が降っていた。3年ぶりの九州である。


 *1972年の関西・九州行き(2)へ

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い 面白い 面白い

この記事へのコメント