新京成電鉄・二和向台駅

 先日ふとしたきっかけで、「わが心の集団就職列車」というドキュメンタリーを見ました。1999年に鹿児島テレビが製作したもので、鹿児島では中学を出た多くの15歳の少年少女が、大阪や名古屋に就職しました。
 
 東京の視点では東北からの集団就職が注目を集めますが、九州や四国からは主に関西圏を中心に求人活動が行なわれました。放送は昭和34年に鹿児島県の吹上浜にある中学校の卒業生の足跡をたどったものです。当時の団体専用列車は西鹿児島(いまの鹿児島中央駅)ではなく、お隣りの鹿児島駅発だったのですね。

 放送では、最後に今のふるさと鹿児島が紹介されています。見ていて考えさせられるドキュメンタリーでした。

 *わが心の集団就職列車(鹿児島テレビ)昭和34年放映

 ところで、私が福岡県の大牟田市から船橋の三咲小学校やって来たのは、1963年5月です。最初は船橋市の新京成電鉄・二和向台駅前に居住しました。

二和向台駅.jpg
 新京成電鉄二和向台駅(2011年)。後年の画像だが当時は単線、棒線駅、第4種踏切だった。駅員さんと本物の電車ごっこをして遊んでいた。

 二和向台駅周辺には、
・明治~大正期にこの地に開拓に入ってきた開拓農民(の末裔)、
・昭和30年代に閉山となった北海道の炭鉱(美唄、夕張、芦別・・等々)からの炭鉱離職者、
 (雇用促進事業団の5階建て大規模団地が建てられていた)、
・同じく、東京国税局、関信国税局が九州各地の税務署から募った広域配転職員、
 (木造2階建ての長屋作りの職員住宅=九州の炭住に形が似ていた)
の家族が三大勢力でした。クラスを三分する比率でした。

 学校は突然の児童数の急増についてゆけず、旧・日本陸軍の無線送信所の施設を改造して教室にしていました。大牟田とくらべて何と粗末なという感じでした。地域の電話はダイヤル式ではなくガリガリガリとハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう方式でした。昔の映画でしか見たことがありませんでした。北海道からの子も同様だったようで、「美唄には××があったのに・・」とよく言ってました。石炭産業が充実していた当時の福岡県は、他県が足元にも及ばないほどの社会資本の蓄積があったのです。 

 その後、人口増加は止まることをしらず、三咲小学校からは八木が谷小、二和小など5~6校の小学校が分割されてゆきました。当時は気が付かなかったのですが、遠方の地域に住んでいた子供たちは路線バスで通っていました。

 ちなみに「二和」とは北総台地の開拓順のことで、①初富、②二和、③三咲、⑤五香、⑥六実、⑧八街、⑫十余二・・と数字ではなく漢語で命名していったものです。

 担任の先生は大学(中央大)を出たばかりの若い先生で、よく遊んでくれました。九州では雪がほとんど降らなかったのですが、関東ではしばしば雪に見舞われました。校庭でどろどろになりながら雪合戦をした思い出があります。九州の小学校にはストーブがありませんでしたが、船橋では冬にストーブ当番があり、毎日石炭をもらいに用務員室に行っていました

 先生はちょうど結婚された直後で、それ以後年賀状の交換だけは続けていましたが、奥様から昨年喪中ハガキが届きました。北海道には方言がほとんどありませんが、船橋と九州の人々がだんだんと標準語になっていったのは北海道組の影響だったと思います。

 *二和向台駅の思い出(2011年)

 新京成電鉄はここへ来るまでは、「新」が付いているのだから京成の新しい会社だろうと思っていましたが、大間違いでした。京成創業時の木造車の鋼体化が終わったモハ45形、2扉の300形、正面5枚窓の125形などがまだ走っており、そこへ、本体の京成本線から次々に電車が転属して来ました。塗装変更が間に合わず、緑の濃淡塗分けのままで走っていました。いわるゆオンボロ電車だったのです。

 モハ45形は14m車で、45+46、47+48で2連を組み、ラッシュ時には併結4連で使用されていました。300型も14m車で、昼間は単行運転に使われていました。正面5枚窓車は京成創業時の形態のままですので、貫通路がなく通り抜け出来ません。他方、京成から転属してきたばかりの電車群はモーター出力が高く、かなり飛ばしていました。

 信号方式は単線ですので、タブレットが使われていました(続行運転は票券方式でしたが、当時は理解できませんでした)。なんだか西鉄の宮地嶽線のような感じだなあと思いました。クラスにお父さんが新京成に勤めている子がいて、よく電車の話をしました。

 東京まで出るには三咲駅、高根公団駅、薬円台駅のいずれかで交換がありました。まだ北習志野駅はありません。茫々たる原野でした。前原駅で路線は二手に分かれ、一方は新津田沼駅に、もう一方は藤崎台駅を経て、総武線を越えて京成津田沼駅に行きました。国鉄利用者が圧倒的でしたので、ラッシュ時でも京成津田沼方は単行運転で済みました。

 ダイヤは昼間時は48分間隔という恐ろしいほど間隔が空いていて、ラッシュ時には交換駅が増えて14分間隔になりました。モハ45形の4連以外は16m車の3連が最大でした。

 毎日の買い物は二和向台駅前にあった何でも屋さん1軒しかありません。そこで時々新京成の高根公団まで行って最新の団地の商店街で買い物をしました。京成ストアを中核に個人商店が並んでいました。たまに船橋の町へ出ましたが、デパートはまだなかったですね。国鉄船橋駅前は船橋食品(現ユアサフナショク)の倉庫でした。後年西武百貨店になりました。船橋市の人口は18万人で、大牟田より少なかったのです。 


 当時の千葉県は浦安から富津まで、東京湾沿いの海岸を三井が埋め立てを請負って開発が始まったばかりでした。農家の次男三男は跡を継がず、京葉工業地帯の労働力として雇用されてゆきました。開発=善の時代でしたが、筑豊や三池で三井が手を引いた後の姿を見てきたものとしては、大丈夫なんだろうかと子供心に疑問を抱いていました。

 新日鉄君津製鉄所が稼動し始めたころは、北九州の八幡からの移住者で学校全てが九州組。何しろ2万人からの人々がドッと移転してきたのです。地域は「博多弁」が支配していました。しかし、開発から半世紀、木更津や富津など重化学工業が下火になった地域では、かつての北九州や大牟田と同じ現象がおきています。歴史は繰り返すのですね。

新日鉄君津2014.jpg
 飛行機から見た新日鉄君津製鉄所(当時の名称)の全景。JAL1086便(高知便)から(2014.12.8)。


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