1975年の東海・九州行き(1)/名鉄岐阜市内線

 きょうは「新型コロナウイルス」のワクチン接種をかかりつけ医に打ってもらう予定でいる。その概要は、別のページでどうぞ。
 小1時間ほどで終わった。医師だけでなく、看護師、スタッフ総出で至れりつくせりの対応であった。2回目は3週間後になる。

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 一つ下の西鉄甘木線200形の記事は、1975年3月下旬に家族旅行の中で実施したものである。その前の2月下旬(1975年2月24日~3月4日)、私は一人で50.3ダイヤ改正で消える列車を中心に九州行きを実施している。途中岐阜の名鉄市内線、関西本線、阪神国道線などを訪問し、京都から急行「音戸」号で広島に向かった。山陽路は消える特急「つばめ」「はと」「しおじ」などのオンパレードであった。以下、すこしずつ思い出しながら記述しておきたい。

名鉄520~510続行運転.jpg
 揖斐・谷汲連絡、黒野行き直通急行のモ520形~510形。当初、忠節までの路面区間は県警の許可が下りず、連結運転ではなく続行運転であった。

 東京からは6時15分発の新幹線「ひかり」1号岡山行きに乗車。名古屋からは名鉄で新岐阜(今は名鉄岐阜)へ。少し前に「鉄道ファン」誌が、赤と白に塗り分けられた大正スタイルのサバーバン、モ510形、520形の特集を組んていたのでぜひ見てみたいと思ったのである。

 新岐阜駅前に降り立つと、名鉄岐阜市内線の路面電車が元気に走っていた。廃止になった北陸鉄道金沢市内線からの転属車をはじめ、緑とクリームのツートンカラーの車体が幅を利かせていた。谷汲行き直通急行まで時間があったので、まずは市内線を真っ直ぐ北上することにした。

 徹明町交差点を通過し、岐阜一の繁華街柳ケ瀬を通過すると、昔ながらの城下町の街並みに変わっていった。お城とロープウエイが見えるとやがて大きな橋を渡った。長良川だった。さらに北上すると終点の長良北町に着いた。長良橋には洪水時に浸水しないよう、道路側に閘門が設けられていた。これが閉まると電車は通行できなかった。

 長良川を渡ったところに「鵜飼屋」という停留所があったが、なかなか趣のある駅名だった。長良北町から直ぐに引き返す。徹明町までやってくると路面電車がたくさん見えた。

名鉄550型長良橋.jpg
 長良橋にて。モ550形。元北陸鉄道金沢市内線の2000型である。

名鉄579型.jpg
 モ570形。都電6000形と同一設計で、1~3号車が美濃町線用、5~6が市内線用だった。

名鉄550型徹明町.jpg
 徹明町交差点の550形。左側が忠節方、前方が長良北町、手前が新岐阜方向になる。

名鉄520型徹明町.jpg
 大正モダンのモ520形。こんな大型車が路面を走ってきたのでビックリした。

名鉄510型新岐阜駅前.jpg
 新岐阜駅前のモ510形。手前の線路は各務原線への連絡線。

 路面電車はまだまだ元気があり、このあと谷汲線への直通電車は路面区間も連結運転が許可された。しばらく盛業が続いたが、2005年に廃止されてしまった。岐阜の路面電車は行政の理解が全くなかったことが全廃の一番の原因だった。ポピュリズムが世論を間違える好例だろう。

 
 この後、名鉄で新名古屋まで乗車した。途中の国府宮で途中下車して名鉄電車を観察した。

名鉄5200と7500国府宮.jpg
 パノラマカーは我々の世代にとっては憧れの電車である。

名鉄5500特急車国府宮.jpg
パノラマカーの一つ前の世代の5500形も特急運用についていた。一段下降式窓が素晴らしいが、中間車と車体断面が違うので編成美を乱していた。


 新名古屋からはミニ周遊券の経路選択の自由を生かして、はじめて関西本線に乗車した。まだ単線非電化の時代である。ホームにキハ55系の急行「かすが」2号、奈良行きが停車していた。車端のクロスシートの2人席に座った。全面展望抜群である。見ると運転士が2人乗務していた。さすが大幹線の関西本線だと思ったのは、大いなる勘違いであった。単線で、かつ自動閉塞区間ではなく、タブレットの交換をしながら進む一昔前のスタイルだったからだ。

 地上信号機は腕木式だった。名古屋を出ると、進行現示を二人で確認しながら進む。となりの近鉄線とはえらい違いだ。タブレットキャッチャーを使っているので、各駅ごとに「バタン!」と大きな音を立てる。そのたびごとにタブレットの輪っかがドアーガラスに激しくぶち当たる。しかし、考えてみれば当時の日本の鉄道は、幹線といえどもこのような閉塞方式で運行されていたのだ。
 
 関西本線柘植駅.jpg
 途中の柘植駅で草津線のキハ35に出あう。

 やがて、奈良に着いた。まだ高架化されるはるか前の話である。近鉄に乗り換えたい衝動に駆られたが、そのまま関西線で進む。関西本線の気動車列車はすでになく、113系の快速が走りはじめていた。立派なトレインマークが付いていた。

急行かすが2号奈良駅.jpg
 となりのローカル電車は101系(若草色)である。

関西本線快速なら駅.jpg
 電化に伴って投入された113系は大型愛称板を付けていた。


 大阪市内をどうやって抜けたかは記憶があいまいである。目的は阪神国道線~北大阪線に乗ることである。夕闇迫る中を、野田から中津まで往復してきた。

阪神北大阪線中津.jpg
 中津で下車。ここで引き返した。電車は金魚鉢で運行されていた。

阪神北大阪線中津鉄橋.jpg
 阪神線と並んで阪急の3複線の鉄橋が架かっていた。路面電車スタイルの電車しか走行しない阪神北大阪線の鉄橋が、長大編成が通過する阪急線と同じ規格なのに感心した。いまこの橋梁は撤去されて道路となっている。

阪神北大阪線T字型架線柱.jpg
 北大阪線開業当時は寒村だったようだが、阪神が道路を建設して線路を敷いた。T字型架線柱が年季が入っていた。

 野田に戻ってきた。国道線にも乗りたかったが、時間がないので本線で甲子園まで進む。同ラッチで甲子園線に乗り換えた。ここには甲子園駅を中心に甲子園線が走っていた。まずは、北側に向かって上甲子園まで乗車する。あたりは住宅街で、12分間隔運転だった。お客さんは多い。

 上甲子園では国道線に接続している。当時の国道線は末期的ダイヤで48分間隔などというとても都市部の路面電車にはあり得ないような状態だった。そのまま甲子園方に折り返した。

阪神75号車上甲子園.jpg
 上甲子園に停車中の75号車。浜甲子園行きである。

 上甲子園から甲子園駅を通すると、右側には甲子園球場が現われる。球場以外は住宅地である。やがて終点の浜甲子園に到着した。道路とは隔てられたホームのある停車場だった。すでに真っ暗になっているが昼間に乗ってみたいと思いながら果たせずに終わってしまった。

 再び甲子園まで戻る。そのあと梅田に出たと思うが、経路の記憶があいまいである。そして、京阪か阪急電車に乗って京都へやってきた。


 これから九州へ行くのだが、乗るのは急行「音戸」号である。12系客車で、呉線を経由して広島までゆく。寝台車を併結していたかは覚えがない。夜遅くの京都駅前は閑散としており、食べ物屋がほとんどなかった。たしか1軒だけ空いていた定食屋でとんかつを食べたと思う。

 列車はガラガラだった。新大阪では雪で遅れていた新幹線接続列車の待ち合わせのため、発車が30分近く遅れた。大阪や神戸、姫路あたりまでは人の動きがあったが、三原から呉線に入ったことはまったく解らなかった。

 明け方に広島駅に着いた。

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この記事へのコメント

ゴリライモ
2021年06月09日 21:46
こんばんは。
昔の電車って顔といい色といい、その会社の特徴が色濃くでてますね。
楽しく読ませていただいています。
railway
2021年06月10日 15:59
ゴリライモ様、
書き込みありがとうございました。最近の鉄道車両は会社による特色がなくなり、言われないとどこの社のものなのか解らなくなりつつあります。昔は会社ごとに自己主張が強かったように感じます。またお越しお待ちしております。