(惜別)麒麟児

 きょうの朝日新聞夕刊(2021.5.28付)の「惜別」に、元大相撲関脇、麒麟児和春氏の記事が載っている。3月1日に亡くなったことは、新聞の死亡記事で知ったが、彼とは同じ中学校(墨田区立両国中学校)の同級生である(私が3年9組、垂沢君は3年10組)。「麒麟児」という四股名は関取になってからのもので、同級生たちは本名の垂沢君と呼んでいた。というか、番付が上がってテレビ中継されるような地位になっても、しばらくは本名の『垂沢」のままで出ていた。

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 朝日新聞2021.5.28夕刊「惜別」より

 このブログは鉄道ブログなので、大相撲のことは関係ないと思われるかもしれないが、いささかのつながりがある。と言うのは、父上が当時の国鉄常磐線・我孫子駅の助役さんだったのだ。

 両国中学校は相撲部屋がたくさん集まっている校区なので、1クラスに1~2名のおすもうさん(の卵)が在籍していた。1学年に約20名、全体では60名余いたことになる。当時は小学校を卒業すると相撲部屋にスカウトされて、東京へやってきていた。毎日部屋のおかみさんが作ってくれた超・特大の弁当(まだ中学給食は始まっていない)を持って通学していた。北海道や東北出身が極めて多かった。

 そんな中で垂沢君は中学3年から両国にやってきた。大横綱大鵬を生んだ名門・二所ノ関部屋に所属していた。当時の二所ノ関部屋は両国小学校の正門と対峙した場所にあった。おすもうさんは寡黙でおとなしい人が多かったが、垂沢君はどちらかというと快活で明るい性格だった。自宅は柏にあったそうで(国鉄官舎?)、ごく一般的な都会の中学生だったのだろう。

 中学校の体育の授業は、2クラス合同で実施されていたので、9組と10組は一緒にやっていた。私は体育が嫌いだったが、垂沢君は運動万能の少年で、体育の授業は何でも機用にこなしていた。体形がアンコ形ではなく、筋肉質だったからだろう。

 体育の教員の一人は大学相撲部の出身ではないかと思うような体形だったが、いちど相撲を取らせてみたいと思ったものだ。カリキュラムに相撲はなかったのが残念だった。
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 中学3年時の垂沢和春クン。1968年両国中学校卒業アルバムから

 私のクラスの担任だった斉藤繁男先生は社会科だったので、垂沢君の話になると、お父さんの国鉄の助役という職制がどんな地位にあるのかなど極めて詳細に話をしてくれた。また、我孫子駅は千葉県にあっても千葉鉄道管理局の管轄ではなく、東京鉄道管理局(まだ東京三局は分割前だった)の管轄下にあること、労働組合(国労、動労等)がなぜバラバラなのかなど、中学生にとっては初めて聞く話をよくしてくれたものだ。突然転校してきた垂沢君のことは職員室でも話題になっていたようである。後年、私は斉藤先生と同じ大学に進むことになる。

 1学年に約20名いたおすもうさん(の卵)のうち、後に芽が出たのは麒麟児と魁輝で、ともに関脇まで勤めた。1コ下には横綱・北の湖がいた。北の湖、若乃花(2代目)、麒麟児は、昭和28年生まれの「花のニッパチ組」と呼ばれたが、麒麟児は早生まれなので、北の湖より学年は1つ上になる。引退後はNHKの大相撲中継の名解説者として活躍した。

 お相撲さん(の卵)たちは年6場所の間、3場所は地方(大阪、名古屋、福岡)なので、学校にはやってこない。東京場所の間も1ヶ月近く休んでいた。今なら大問題となったろうが、当時は極めて大らかな時代だった。卒業式の3月は大阪場所の最中だったので、我々は会わないまま卒業してしまった。中学生力士が禁止になるのは1973年からである。

 だいたいが二人一組で兄弟子の付き人をやっていたので、両国から蔵前橋を渡って蔵前国技館(当時)まで歩く途中で、よく出会った。3人とも浴衣の着流しで、大男が往来を闊歩する姿は両国界隈の風景によく似合った風物詩だった。

*朝日新聞デジタル(惜別記事)
 
*入門のいきさつ(相撲界H6.2月号)
*廃業の危機(相撲界H6.2月号)

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