原武史「歴史のダイヤグラム」と準急内房号

 きょうの原武史氏の朝日新聞連載記事「歴史のダイヤグラム」に、準急「内房2号」が登場した。お召列車ではなく、天皇以外の皇族が鉄道を利用する際のエピソードが紹介されている。昭和39年(1964年)3月22日に両国駅から内房号に、当時の皇太子、同妃、浩宮一行が家族旅行で乗車した写真が掲載されている。乗車したのはキロ28 67号車で(写真の右下に標記が見える)、お召列車ではなく、定期の気動車準急にキロを1両を増結して乗車したようだ。

 私は小学校5年生から6年生になる時で、ちょうど両国小学校への転校直前である。だからこの列車は見ていない。しかし、皇太子一家はよく房総へ出かけていた。出かける際には始発駅である両国駅が利用されたが、夏ダイヤ時以外、駅前は閑散としていた。警備に好都合だったにちがいない。でも、記事によると途中の千葉駅では500人ほどの一般乗客が警戒線を突破して窓際に殺到したとある。古きよき時代だったともいえる。

朝日記事お召し記事1キロ2867.jpg
朝日新聞2021年4月3日/別刷り<be>

 乗車列車は準急で、まだ急行ではない。当時の国鉄では走行距離100キロ未満は急行ではなく、準急とされていた。房総準急の循環運転は始まっておらず、通常は房総西線+房総東線の列車は千葉駅まで併結運転されていた(キハ28系4両編成×2で、併結相手は準急「外房」号)。

 当日はキロ28が本来の4両編成の「内房」号に増結され、5両編成で運転されたのだろう。編成表によると、キロ2867号車は、1962年11月に帝国車両(堺にあった)で新製され、1963年9月に千葉気動車区に配置された。しかし、房総電化にともない、1972年には熊本区へ転出している。千葉気動車区とは、稲毛-西千葉間の山側にあった日本初の気動車専門の車両基地である。

 なお、「内房」号は「ないぼう」号、「外房」号は「がいぼう」号と発音した。それと掲載の写真の左隅に紙焼き写真をアルバムに貼る際のコーナーらしきものが写ってる。この写真は原さんがご自身で撮影されたものだろうか。

朝日新聞の記事

 
 両国駅の話題のついでに・・・。両国駅前には都電が来ていた。京葉道路両国2丁目交差点から分岐して、1停留所だけの短い路線だった。新宿駅前~両国駅前の12系統で、大型の5000型などが走っていた。1968年には廃止されたので、幹線の駅前の都電としては覚えている人は少ないだろう。
 
 戦後直ぐには都電の線路を国鉄駅構内(貨物ホーム)まで引き込み、総武本線の反対側の終点だった銚子のさらに先の新生駅から鮮魚等の貨物輸送に使われた。軌間が異なるので必ず積替えが必要だったが、両国駅で積み替えられた鮮魚は築地市場まで運ばれた。
 
 また、国鉄線とつながっているメリットは、都電の新車の搬入にも利用された。都電最後の新車である大量の8000系は、ここから交通局の線路に入っていったという。

 両国駅はいまでも大幹線のターミナル駅の風情がある。駅前広場が広いので、私たちの中学校では遠足などの集合・解散は、学校ではなく両国駅前を利用していた。3学年同時の遠足では、バス30数台が一度に並んで、それはそれは壮観な風景だった。

 バスファンでもあった私は、学年ごとにどこの会社のバスが来るか楽しみにしていた。用もないのに他学年のバスを見に行ったりした。はじめて相鉄バスがやってきたときには、私たちの学年が相鉄バスに当たり、小躍りしたものだ。

諸川久「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」AERA(2018.9.1)






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