大牟田市立三川小学校卒業アルバム

 昨日、「大牟田・・遠い遠いふるさと 想い出の風景」でお知り合いになった、タチカワ様から昭和40年3月大牟田市立三川小学校の卒業アルバムのコピーが送られて来ました。私はこの学校に5年生の6月までしかいませんでしたが、半世紀の時の流れを越えて、同級生達の12歳の頃に巡りあうことが出来ました。

三川小学校アルバム.jpg
 アルバムの初めは学校の北側にあった正面玄関です。木造校舎なのにずいぶんと立派な玄関だったのですね。ここでは土曜日に学年朝礼などが行なわれていました。私は転校当日ここで「時の記念日」の発表をして三川小を去りました。

三川小アルバム(教職員).jpg
 アルバム最初の教職員の集合写真。2年次の担任だった北島礼子先生(最後部左から3人目)、3~5年次の担任だった北俊之先生(最前列右から3人目)以外、写真や名前を見ても思い出せません。また、校長先生は私の転校後に赴任されてきたので面識がありません。
 児童の写真は1~5組に分かれて掲載されています。みんなまだ可愛らしいこどもで、この世代だと女児の方が大人びています。60年近く経ちましたが、みんな元気でしょうか??


 私は小学校を5回変わっています。三川小学校は3校目です。最初は福岡県の飯塚市立立岩小学校、大牟田市立銀水小学校、そして三川小学校。この後は船橋市立三咲小学校、墨田区立両国小学校と変わります。

三川小学校の思い出(父母を語るブログ)

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 6年生の卒業まで在籍しなかったので、この卒業アルバムに私は当然のことながら写っていません。その代わり、3~4年次の思い出の画像が出て来ましたので掲載しておきます。

三川小学校3年5組久留米バス旅行(1).jpg
 昭和36年11月2日、三川小学校秋のバス遠足です。3年5組のみんながバスに乗り込むところで、場所は久留米の石橋文化センター駐車場。学校⇒クロレラヤクルト⇒月星ゴム工場(今のムーンスター)⇒石橋文化センター(ブリジストン創業者による動物園)⇒船小屋と回ったと思います。野田校長先生が真ん中に写っています。バスは西テツバス(現・西鉄バス大牟田)で、当時車体にはライオンマーク(画面の右側に写っている)が描かれていました。野球の西鉄ライオンズ全盛期です。ナンバーの表記は「久留米」でした。しかし、この写真、よく撮っていたなあと我ながら感心しています。
 この後、西鉄ライオンズでは八百長事件が起き、球団は最終的に西武鉄道に譲渡されます。東京へ出てきたあと、西武の宣伝で「ライオンズ・・云々」が大々的に流れると、本能的に嫌悪感を覚えました(救世主なのにね!)。ライオンズは西鉄なんだよ、と。西鉄バスには全車両にライオンマークが付いていました。いま西武系のバスにはレオマークが描かれていますが、街中で見かけると私は西鉄バスを思い出してしまいます。


三川小学校4年5組大運動会(2).jpg
 昭和37年10月7日の三川小学校大運動会です。4年5組男子の棒リレーですね。左から4人目が私です。当時九州の学校では体育は裸足でした。直ぐお隣が三里小学校ですので、運動会は期日をずらして開催されていたと思います。1クラスは50名で、5クラスあったわけです。

三川小学校4年5組大運動会(1)鼓笛隊.jpg
 同じく鼓笛隊です。当方はまだ4年生ですので、鼓笛隊には入れませんでした。上級生の中の選ばれた人だけだったのでしょうか。気になりますが、指揮者は人望のある6年生だったと記憶しています。名前は思い出せません。6年生は7クラスあったと思います。1クラス50~55名はいたハズです。

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 昨年、炭鉱電車(三井化学専用線)の廃止の話題でブログを書いたときに、小学生のころの体験談を書きました。IS君と一緒に自転車に乗って四ツ山や荒尾の街を巡っていた想い出が甦りました。

 自宅から未舗装の道を自転車をこいで、桜町トンネル(当時は名前を知りません)に行き着き、築堤を上がると三池鉄道万田駅に小さな蒸気機関車が止まっていました。後年アメリカ製のポーター社のSLだと解りました。廃車後は三井三池製作所の玄関口に保存され、その後荒尾の三井グリーンランドに置かれていたそうです。

 四ツ山では、四ツ山をぐるりと4分の3周する線路がありました。これは、三池炭鉱四ツ山坑への引込み線だったようですが、電車が走っているところは一度も見たことがありませんでした。

 大牟田から島原へ向かう航路の発着所は、今と違って三池港の内湾南岸壁にありました。大牟田駅の裏駅(西口)から西鉄バスが通っていました。何度か見に行ったことがあるのですが、船に出会ったことはありませんでした。

 三池鉄道の三池港駅ヤードには線路がたくさんあり、国鉄の比ではありませんでした。でも、南船津町の自宅から遠かったので、ほとんど行くことはありませんでした。三井の貴賓室といわれた三井港倶楽部は存在すら知りませんでした。また校区としてはお隣の諏訪小学校になるのですが、海に突き出た新港町には三池炭鉱の木造の社宅が整然と立ち並んでいました。大牟田駅へ出る路線バスで何度か通過しただけで、降りたことはありませんでした。

 十三間道路(今の国道389号線)はまだ立ち退きが完了しておらず(特に四ツ山の闇市場付近)、未開通です。三川通りがメインの大通りでした。しかし、既に完成したまま放置されていた区間は道幅が広かったにも関わらず車がほとんど通らず、子供たちのかっこうの遊び場になっていました。その時の名残りで、西鉄の路線バスは今でも三川通りを走っています。

 三川通りには昭和27年まで路面電車の西鉄大牟田市内線が走っており、その軌道敷はレールを撤去しただけで割石はそのまま残っていました。また、三川町4丁目と2丁目付近は、単線の線路に交換設備があり、いまでも道幅がふくれています。みごとな鉄道遺構です。軌道敷ではなく架線柱が残っていないか5年ほど前に諏訪橋から四ツ山まで九電の電信柱を探索したのですが、発見出来ませんでした。

 割石は県境の四ツ山の手前でピタリと途切れていました。県境地域はたいへんな繁華街で、田中屋、小松ストアーなどの大型(当時としては)店舗のほか、個人商店がたくさんありました。県境(福岡県/熊本県)は細い路地のような道だったので行政区画があるとは思えませんでした。ただ、赤い公衆電話が大牟田側は硬貨を入れる自動電話、荒尾側はガリガリガリと手動回して交換台を呼び出す型式でした、手動の公衆電話って博物館にでも行かないと見られませんね。

 テレビ放送は福岡県にも関わらず、熊本からの電波(NHK熊本、民放はRKK熊本放送)を受信していました。方言の大牟田弁は、博多弁より熊本弁に近いと感じていました。薩摩的でした。我が家では博多弁、学校では大牟田弁をしゃべっていました。

三池鉄道128年の歴史を終える(ブログ)


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