1967年の関西修学旅行

 中学3年生の修学旅行は1967年の5/27~30に京都・奈良方面で実施された。受験があるので春に実行したのだろう。


(1)ひので号のうた

 まずはこの歌をお聞きください。

 *「ひので号のうた」

 この歌はNHK「みんなの歌」で1963年4月から放送された。私は大牟田市在住のまだ小学生のときに聞いている。歌とともに、品川駅発車から京都まで車窓から見える風景が映し出された。圧巻は浜名湖付近で関西からの「きぼう」号とすれ違うシーンである。窓を開けてお互いに手を振ってすれ違うという感動的!?シーンがあった。NHKのやらせだったのかどうか解らないが、今なら窓から手や顔を出すなと厳しく注意されたことだろう。

 「ひので」も「きぼう」も1959年4月20日から運行を開始。戦後ベビーブーマー世代の修学旅行生をさばくため破格の「修学旅行専用電車」155系が新製配備された。ベビーブーマー世代は1学年700名ほどが普通だったので、たいへんな数の生徒が関東と関西との間を国鉄で移動したといえる。1964年の東海道新幹線開業後も継続されたが、1971年10月26日発車を持って廃止された。

 関西への修学旅行は学校としても年間最大のイベントであった。2年次の3学期から社会科と美術の時間は全面的に京都・奈良の話になった。特に美術は絵を描くことではなく、仏教美術の歴史や建築様式を学ぶことになった。重層入母屋造りだの、もこしだの普段使わない言葉が出てきて、定期試験にも出題されるほどだった(私は好きだったが)。

 155系はTcMM´Tcを基本編成として、これを数組併結して、当初は12連、その後16連を組んだ。一方のTcをT(サハ)にしてなるべく経費を節約することも行なわれた。定期検査の際には4両を減車して運行されたが、当初は品川と宮原に1編成ずつしかなかったので、毎日運行のため片道は夜行運転となった。修学旅行専用電車としてはわずか10数年の活躍だったが、歴史に残る名車だったといえる。


(2)5月27日(土)ひので号で米原へ

 万全の備えをして5月の修学旅行を迎えた。5月27日に両国駅前に集合である。交通公社の添乗員さんは若くてニコニコしていた。後年JTBの方に聞いたら、修学旅行はベテランと新人で担当していたとのこと。まずは品川駅まで移動する。各自で分散乗車となったが、秋葉原駅での乗換え時に添乗員さんを追い越してしまった。

 品川駅はつい最近まであった団体専用ホームである。ひので号の時刻は大型時刻表にも記載されていたが、品川8:20分発であった。電車はすでに入線していた。ワクワクする思いで乗り込む。屋根が低く抑えられており、そこに101系と同じグローブ型ベンチレーターがついていた。車内は3-2の座席配置で、ヨーロッパの列車のような趣があった。運転台背後のデッキには時計とスピードメーターがついていた。

 我々はベビーブーマー世代の後だが、1学年500名はいた。16両編成の「ひので」号の5両ほどを我が校で使っていた。手元のメモによると、クハ155-10に乗ったようだ。墨田区内の中学校3校で1編成を占めた。

 座席にはあまり座っていた記憶がない。同じ鉄道ファンだったS君とデッキの窓をさげて写真を撮ることに夢中だったからだ。まずは横浜付近。右側に相鉄が並走するが、初めて相鉄の5000系(初代)を見た。流線型の車体だったので、こじんまりした感じがした。旧型車も多かった。それも6両つないでいて、何だか大手私鉄のような雰囲気だった。

相鉄旧型車.jpg 横浜駅付近の名物だったガスタンク。その横を相鉄は走っていた。


 富士駅を出ると岳南鉄道が見えた。ちょうどホームに電車が停車しており、2年前の東海道自動車旅の際の踏切のことを思い出した。浜名湖付近では、関西からやってくる「きぼう」号とすれ違った。だが、だれも興味を示さずいささかガッカリ。そこうしている間に豊橋に着いた。ここから岐阜までは名鉄と並走するので、デッキで進行右側の窓を下げてカメラを構えた。

 鉄道配線の様子は正確には解らないが、東京都修学旅行委員会が編纂した「東京から関西へ」という小冊子に、全線地図入りで車窓風景の紹介があったのでたいへん参考になった。ちなみに後年、レイルウエイライターの種村直樹氏にこの冊子を紹介したら、しばらく貸して欲しいと頼まれた。返却の際には最近発行されている「新幹線版」が添えられていていた。

 名鉄とは頻繁にすれ違った。ちょうど標準塗装をライトパープルに変更している頃だったので、同じ形式の電車でも様々な塗装の車がやって来た。しかし、このライトパープルは不評で、数年を経ずにパノラマカーと同様の真っ赤なスカーレットになっていった。

名鉄豊橋駅.jpg 豊橋駅では憧れの名鉄パノラマカーが見えた。12:25分ごろ。しばらく並走したのでS君と狂喜乱舞した。

名鉄5200.jpg パノラマカー以前の名車5200系。名古屋を出て直ぐ13:30分過ぎとあるので枇杷島付近か?

名鉄3400.jpg 愛電の名車3400系。まだ急行で使われていた。

名鉄3700.jpg アルバムには2860型と記載。ライトパープル1色である。白井昭氏のP誌名鉄特集で調べていたようだ。


 「ひので」号は京都が終着だが、我が中学校は途中米原で下車した。近江鉄道の車両を見ながら米原駅東口に出た。狭い駅前広場には、京阪国際観光の貸切バス10台が止まっていた。これに3日間お世話になった。

 行程は、琵琶湖大橋、比叡山根本中堂、京都市内と走り、二条城近くの旅館に着いた。この日はここまで。各自お米を袋に入れて旅館に差し出した。まだ食管法が生きており、米を持参しないと団体旅行は受け付けてくれなかったのだ。高校からは記憶にないので、最後の制度だったかもしれない。この日の夜の自由行動はなし。朝が早かったが、結構ワイワイ起きていた。旅館の前の通りにはかつてN電が走っていたはずだが、廃線跡まで興味は届かなかった。

・品川8:20(ひので号)→米原(京阪国際観光)→名神高速道→栗東IC→琵琶湖大橋→比叡山→京都市内
 *155系16連(クハ155-10に乗車)


(3)5月28日(日)奈良へ

 2日目は奈良へ行く。前日と同じ京阪国際観光バスに乗った。京阪国際は京阪電鉄グループの貸切専業バス会社であった。昨日と同じガイドさんと奈良へ。法隆寺、中宮寺、薬師寺、奈良公園、若草山、奈良の大仏などを見学した。私としては事前に学習していた事柄が次々と目の前に現われるので楽しくて仕方なかった。

 当時薬師寺には高田好胤という名物管長がおられた。前年に我が中学校を訪問して法話をしておられた。見学当日、高田好胤氏は不在で(全国を勧進で飛び回っていた)、若いお坊さんが代わりに説明をされた。東塔はあったが、西塔はまだ再建されておらず、金堂も仮のものだった。お寺の真横を鉄道が走っていた。近鉄橿原線である。時々通過する電車を線路際まで見に行きたかったが、道路がなく、林越しに眺めるだけだった。

 この後若草山レストハウスで昼食。キャベツがたくさんあってそのことが印象に残った。東大寺では案内のおじさんがついてくれた。たいへん参考になる案内だった。奈良からの帰りに宇治に寄ったような気もするが覚えていない。

 夜は自由行動となった。新京極の商店街は全国各地からの修学旅行生であふれ返っていた。ベビーブーマー世代までは見ず知らずの学校同士でよくケンカが起きたそうで、どこの中学校も屈強な若い教師が町に出て警戒していた。でももうそんなことが起きる時代ではなかった。

 それはともかく、二条城の近くの旅館からどうやって新京極まで出かけたのか記憶がない。市電やバス、阪急京都線などではなかったし、徒歩でもないと思うのだが・・。

・京都→法隆寺→中宮寺→薬師寺→若草山(昼食)→東大寺→京都市内
 *京阪国際観光バス


(4)5月29日(月)京都観光と夜行ひので号

 最終日は京都市内の観光である。金閣、銀閣、三十三間堂、二条城、苔寺・・。嵐山にも行っているはずだが記憶にない。バスの中から撮った阪急嵐山線・松尾駅停車中の1501号車の写真があるのだ。ちょうど踏切でバスが止まったので写せた。この1501号車は新京阪デイ100型の生き残りであり、今となっては貴重な写真となった。

松尾駅の1501号車.jpg 松尾駅ホームに停車中の阪急1501号車。


 大徳寺大仙院では名物和尚・尾関宗園住職の枯山水のお庭の説明があった。ユーモアたっぷりの何でもありの説明だった。我が担任のS先生と丁々発止の掛け合いをやっていた。それから半世紀後、2018年8月に京都の定期観光で久々に大仙院を訪れた。住職さんは交代されてはいたが、尾関師は元気で出てこられた。「中学生のときに会いましたよ」というと、「よく覚えてるで」と軽口を飛ばされていた。86歳(2018年時点)になられると言う。ということは修学旅行でお目にかかったとき、師はまだ30代だったことになる。

大徳寺.png
尾関宗園師の書。あれから半世紀後に書いてもらった。

 京都観光の最後は清水寺。最後の最後は「観光センター清水」という食事施設で夕食をとった。テーブルに座ると料理の乗ったお皿がベルトコンベアーで次々に出てくる最新鋭の施設だという。アイデアだろうが、何だか家畜扱いされているような気持ちにもなった。食事後に京都駅に向かう。京都駅前は今のように繁華街が形成されておらず、夜になると薄暗い町だった。貸切バスの乗降は烏丸口で行なわれていた。

 旅行中に体調を崩した生徒が出て、ずっと校長用に交通公社が準備したハイヤーに乗って移動したが、京都駅から一足先に新幹線で東京へ帰ることになった。養護教諭が付き添って行った。

 われわれは「ひので」号である。というか、新幹線はたいへん贅沢な乗り物との意識があったからである。数年後の高校の修学旅行では新幹線に切り替わったが。

 その「ひので」号は夜行運転である。往路は昼行、復路は夜行というのが、「きぼう」号ともどもの運行スタイルだった。京都駅ホーム1番線には3日間お世話になった京阪国際観光バスのガイドさん10名が並び盛大な見送りだった。同じ列車に乗った吾妻第二中(だったと思う)の近江鉄道バスのガイドさんも見送ってくれた。列車が京都駅を離れると、一抹の寂しさを感じた。どこまで起きていたかは忘れたが、やがて室内灯が消された。こんな設備があるんだと感心した。

 車内は非常灯だけになったが、デッキには煌々と蛍光灯がついている。仕切りドアーの窓は透明なのでデッキ近くの座席はいささかまぶしい。遮光のため担任のS先生が新聞紙を張った覚えがある。

 翌朝5時過ぎ、「ひので」号は品川駅団体ホームに帰ってきた。旅館2泊、車中1泊の中学校の修学旅行が終わった。長距離移動だったので、様々なことを見聞きした。鉄道業務の知識にだいぶ厚みが出てきた。

・京都19:45(ひので号)→5:20品川→(山手線~総武線)両国(学校解散)
 *155系16連


「ひので」号、「きぼう」号とも私が乗った4年後の1971年に廃止となった。「ひので号のうた」まで全国放映された名列車だったが、新幹線と高度成長の中で役割を終えたといえる。数年後、愛知県下の東海道線普通電車に乗ったら、偶然にも155系だった。「ここで生きていたのか」といささか感傷的になった。それにしても「ひので号のうた」は九州に住んでいた私にも強烈なインパクトを与えたが、きぼう号の歌やわこうど号、おもいで号の歌などはなかったのだから、東京中心主義の歌だとも言える。各地にいた中学生はどう感じていたのだろうか??




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