三池鉄道128年の歴史を終える

 さる5月7日、福岡県大牟田市にある三井化学専用線(三池鉄道)が鉄道運行を終えた。この貨物専用線は1891年に七浦坑~横須浜間で始まった蒸気機関車による石炭輸送がルーツである。当時の石炭は横須浜から小型船(はしけのようなもの)に積み込まれ、有明海の対岸にある長崎県の口之津港まで運ばれて大型船に積み替えられていた。有明海は潮の干満の差が9mにも達する海なので、大型船が入ってこれなかったからである。

 そこで潮位に関わらず使える三池港が建設された。人工的な閘門でドック内をしきって荷役が出来る方法を開発したのである。この三池港への石炭輸送のために万田坑~三池港間に鉄道が敷かれた。しかも電化された。このとき導入された電気機関車の類が、100数十年を経て今日まで使われてきた。驚異的事実であろう。

 三井化学専用線の歴史や現状は既に多くの方々が報じておられる。その方々がたいへん秀逸なレポートをされているので、ぜひそちらを見て頂きたい。

三池炭坑専用鉄道研究所のホームページ
炭鉄のホームページ 

 例えば三池炭坑専用鉄道研究所さんの「最終日の記録」を読ませて頂くと、貨物専用鉄道にも関わらず多くの熱心な方々に支えられてきたことが解る。あらためて秋にさよなら行事があると伝えられているが期待したいものだ。

三川坑電車2.jpg 三川坑跡に保存されている電気機関車


 私が初めて三池鉄道を見たのは、1960年の夏だったと思う。父の転勤で大牟田市にやってきた。当時の大牟田は「総資本と総労働との戦い」といわれた三井三池闘争の真っ只中にあった。石炭産業や石炭化学工業に携わる人たちで人口は20万人を越えていた。最初は銀水駅前に住んでいたので、西鉄大牟田線から見える仮屋川操車場にセラ形貨車がたくさん止まっていたことを覚えている。

 その後熊本県荒尾市との県境に近い南船津町に引っ越した。三井石炭鉱業関係者やデンカ(電気化学工業)、東圧(東洋高圧=いまの三井化学)、三井三池製作所などに勤める父兄がたくさんいる校区であり、何と言っても三池港が直ぐ近くだった。よく自転車であちこち<探検>に出かけており、三池鉄道の支線(引込み線)に至るまで巡っていた。複線電化の三池鉄道は国鉄などとは比較にならないくらい近代的鉄道だったのだ。

 当時NHK福岡放送局が「九州こどもホール」という番組を放送していた。そのなかに自分の住む町を写真で撮って紹介するというコーナーがあった。ハガキに大牟田の町ことを書いて応募したところ、さいわいにも当たった。

 福岡から番組担当者の方が大牟田の自宅まで訪ねてこられた。ハーフサイズの小さなカメラに36枚撮りフィルムが入っていた。72枚まで写していいいいとのことであった。これを持って大牟田の町を撮影するのだが、考えついたのは石炭の街なので炭鉱の採掘や化学工場などであった。個人でも立ち入ることの出来る三池港の石炭集積場、ベルトコンベアーなどを写したが、化学工場の中も撮りたいと思った。いくつかの工場を訪ねたが、許可がないと撮影できないとのこと。そこで父があちこち掛け合って、東洋高圧(地元で東圧と呼ばれていた)の中に入ることが出来た。

 当日は父とともに工場を訪ねたが、案内の会社の方が工場内を案内して頂いた。どういう行程だったのかが覚えていないが、石炭を高圧で蒸して、それを貨車に積み込む職場に案内してくれた。蒸された石炭(コークス?)から盛大に蒸気があがって素晴らしい写真となった。これは採用された。

 工場内には数多の鉄道が張り巡らされていた。ピックリしたのは凸型の電気機関車がパンタを下げたまま走っていたことである。架線がないのにどうやって走れるのだろうかと案内の方に聞いてみた。蓄電池で走っているとのこと。電池といえば懐中電灯くらいしか思い当たらなかったので理解が出来なかった。これが今回廃止になった三井化学(=東洋高圧の後身)専用線の全盛期である。カメラには収めたが、採用にはならなかった。

 当時はVTRの技術などない時代なので、放送は生番組であった。司会を担当されたのは中江陽三アナウンサーで、入局して間もないころだった。番組は1962年3月9日に九州各県へ放送された。

 これが私と三井化学専用線とのなれそめであった。当時の鉄道の画像が全く見つからないので、当時の放送の模様を再録しておきたい。

 なお余談だが、中江アナウンサーは後年「連想ゲーム」などを担当され、NHKの中では異例のアナウンサー上がりの理事となられた。むすめさんはヤマハ発動機の清宮克幸氏の夫人。日本ハムの清宮幸太郎君は中江アナウンサーの孫になる。

港務所.jpg カメラを持って三井三池港務所の石炭集積場へ。背後の機器は三井三池製作所の最新鋭機械だった。

ベルトコンベアー.jpg 三池港で三池港駅を横断していたベルトコンベアー。

中江アナ.jpg 中江陽三アナウンサーともう一人の女児Kさん。

 私の大牟田在住は小学校2~5年(1960年~1963年)の時期である。自分ひとりで自転車で出かけられる年齢になっていたので印象が強い。三池鉄道は旅客を乗せる鉄道ではなかったが、一部で炭住街と三池港を結ぶ旅客輸送をやっていた。南船津町の鹿児島本線脇からは、荒尾駅北側にかかる三池鉄道の立体交差が見える。そこを凸型電気機関車(20トン電車)に引かれた国鉄63型電車に似た客車が通過しているのが見えた。4扉で3段窓だった。乗ってみたいと思っていたが、クラスにいた同級生は「三池炭坑に勤めている人でないと、途中で降ろされる」と言っていた。この友人のお父さんは港務所にお勤めで、当時は港務所とはどんな会社か全く知らなかったが、三池鉄道の運行全般を担う会社だった。運転士だったのかもしれない。

 三池鉄道の南半分の路線には旅客列車のためのホームがあった。四ツ山に近い西原(ニシバル)駅や三池港駅のそばにはいつも行っていたはずなのに、駅そのものに気が付かなかった。しかし、三井独特のガントリー鉄塔(高圧送電線)の下に敷かれた複線を驀進する電気機関車牽引の石炭車は躍動感あふれるものだった。

 四ツ山駅には信号扱い所があった。木造2階建ての建物で、万田方面からの複線はここで複々線に分かれる。低いガードがあり(早米来ガード)、そこを越えると三池港の南側堤防に沿って道が伸びていた。閘門の先には島原観光汽船の船着場があり、大牟田駅から西鉄バスが通っていた。

 反対側の万田坑付近には一度だけ自転車で行った覚えがある。砂利道だったがやがて鉄道の築堤に突き当たった。登って見ると駅らしきものがあった。そこには見られない小型の蒸気機関車が止まっていた。構内は電化されていたが、どこかの側線で使われていたのだろう。アメリカ製の小型SL(ポーター社製のサドルタンク型)で、廃止後、三井グリーンランドに子供の遊具として置かれていたようだ。

 その脇に鉄道線路をくぐる薄暗いガードがあった。桜町トンネルと呼ばれていたようで、潜り抜けると万田の炭住街と商店などがあったらしい。人が誰もいなかったので怖くて入らず、引き返してきた。

 荒尾市電には同級生のI君と一緒に自転車で出かけた。国鉄荒尾駅の駅舎とは反対側に掘っ立て小屋のような荒尾市電荒尾駅があった。当時少年雑誌でキップの交換がはやっていたので、ここの市電キップを送った覚えがある。返礼は関西の阪神や阪急の軟券だった。

荒尾市電キップ.jpg 往復券だが、子供のころ遊んでいて半券を紛失したらしい。

荒尾市バスキップ.jpg 四つ山は交通の要所だった。荒尾市営も産交バスも四つ山に営業所を置いてキップを発売していた。

阪神キップ.jpg これは交換に送られてきた阪神電車のキップ。当然ながら軟券である。


 荒尾駅に近い三池鉄道の引込線は本線から離れていて廃線同様にの荒れ様だったが、ある日突然(1961年)、自動遮断機と警報機のついた踏切に生まれ変わった。後年の知識だが、三池港からの石炭列車を仮屋川経由ではなく、荒尾駅から金田駅(三井鉱山田川セメント工場)まで搬出するために整備されたようだ。

 断片的な思い出を綴ってみたが、資料の裏づけがあれば、正確なものとなろう。この後、我が一家は大牟田を離れた。その直後の1963年11月、戦後最大の炭坑事故となった三井三池三川鉱炭塵爆発事故が起きた。500名近い人がなくなり、いまなお一酸化炭素中毒で苦しんでいる方がいる。炭住街では3軒に1軒から葬式を出す大惨事となった。

 このとき三井に団琢磨がいたなら、あるいは倉紡を作った大原孫三郎がいたら、どういう施策をとっていただろうか。大牟田の三池炭坑は負の遺産を抱えての閉山であった。

 三井化学専用線の営業休止は、単に1専用線の廃止と言うに留まらず、三池炭坑の文字通りの終焉というべきであろう。


三池鉄道の廃止記事(西日本新聞2020.5.8)


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